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思い返せばすべての始まりは、決して逆らってはいけないあの人の一言だった。
「大阪。行ってきてくれるかな」
にこにこにこにこ。
やんわりとした声と、言葉と、表情と。
かわいらしい笑顔は間違いなく菩薩が浮かべるようなものなのに、相対する二人は恐怖で固まった。
「今から」
「今から!? い、いやあの………大阪?なんで大阪?」
「な、なんですかいきなり」
驚く霞と、焦った声の葉唯。
バイトも終わりゴミ袋も出し終え、さあやっと部屋に帰れるぞという時だった。結構な時刻である。
ちなみにここは少し洒落た作りの居酒屋で、葉唯と霞は2階の部屋を店主から借りている。
「あれ?…無理なのかい?」
小首をかしげるこの店のチーフ―――四条院 紫月(しじょういん しづき)は、どうみても迫力とは無縁の外見だ。
葉唯は中性的ではあるが、彼ほど女顔ではないし童顔でもない。紫月は身長も体重も男の平均より明らかに下回っている。
なのに……背中を冷たい汗がすべり落ちるのは何故だ。
「や、その、……チーフ?明日はちょっと予定があるんですがっていうか俺らバイト休みで」
普段の俺様な態度をどこに置いてきたのやら、葉唯は時限爆弾入りのヌイグルミを前にしたように腰が引けていた。
誰に対しても尊大な彼が、敬語を使うのはこの世でたった2人だけ。
「そっか………無理ならしょうがないね」
悲しげに眉を寄せる姿は、その手のおねーさんならお持ち帰りしたくなるような可愛さだ。しかし二人は片頬を引きつらせる。
彼と付き合いも長い二人は、明確に言葉の裏を感じとったのだ。
「しょうがない、”自発的に”行ってもらうのは諦めようかな…」
意訳すると『グダグダ言うなら実力行使するぜゴラァ』ってとこでしょうかっ?
紫月の艶やかな黒髪がサラリと流れ、一瞬彼の瞳が緋色に染まる。
「どうする?」
「…行かせてクダサイ……」
アルカイックスマイルの背後に魔王が見えた。
二人そろっての(声の震えた)返事に、紫月は手のひらを合わせて満足気だ。
「うん、ふふ、元気なお返事だね」
どこがですか。 どこがですか??
最近やたらと紫月は、本来、彼の仕事であるものを二人に代行させるのだ。しかも事後承諾で。しかも無償で。あれ、これもしかしてボランティア?
きっと何かたくらんでるのだろうと、二人は考えている。
悪い人ではないのだが、こういう時の紫月様は厄介極まりない。紫月がこころなしか、ウキウキしながら詳細を語りはじめる。
せめて内容を説明してから承諾をとってほしかった…。
「理不尽だ……」
「お前も負けてないぜ普段」
霞がツッコムと、ギロリと横目で睨みつけてきた。自覚あるくせに。
――――それが、二日前のことである。
「うおーい、オリンくん。具合はどうだ?」
「あ………、霞さん。お帰りなさ………………あれ、葉唯さんは?」
「よう坊主、今帰ったぞ」
「え、ぇえ!?」
まあこれが普通の反応だよなあと、霞はおんぶお化け…もとい背後の誰かさんをゲンナリと見やる。
ホテルに帰ってきた男二人を出迎えてみれば、片方がもう一方の首にぶら下がっていたのだ。オリンという少年の驚きやしかりである。
クーラーの効いた室内だからか、急にシャキっとした葉唯が少年の頭に、アイスの大量に入ったビニール袋を乗せた。
「わわ、いっぱいですね」
棒のように細っこい手足の少年には重たかったのか、慌てて頭上の袋を抱え下ろした。
「好きなもん選べ。2個までな」
そう声をかける葉唯の機嫌は上々のようだ。涼しくなって元気になったのだろう。
オリンが2個食べるかはともかく、明らかにアイスは10個近くあるように見えるのだが……。オリンは頭に疑問符を浮かべた。霞が食べる分を考えても数がおかしい。
そこで霞が相棒に呆れた目を向けているのに気付く。
「ったく、何個食う気だお前……」
残りは全部あのお腹に消えるらしい。
「…お、お腹、丈夫なんですね」
「ん、そうか? 別に普通だろ」
葉唯は平然と言い切って、ドッカとソファに座りおもむろに袋からアイスを取り出す。オリンは絶句した。
「うんうん、これぞ夏って感じだよなあ…でっ」
マイペースにアイスで和む、葉唯の頭を霞が小突いた。いつまでも本題に入らないからだ。
「………まあそれはともかく、多少の収穫もあったし。食べながら話そうか」
その言葉に、オリンの表情は強張る。……やっと、手がかりが。
すぐに見つけるからね、姉さん。
「話の前に………もう体調は大丈夫なのか?」
「あっはい!すみません、ボクも一緒に行ければよかったんですが……」
オリンはすまなそうに、シュンとうな垂れた。子犬がしょげている様で、なんだか頭をなでたくなる。
耳があったなら垂れていて、尻尾があったなら頼りなく揺れていそうな風情だ。
霞は改めて少年を観察する。
うん、どこに出しても恥ずかしくない美少年だ。マリンブルーの瞳に、清流そのもののような青銀の髪。それがいっそう少年の可憐さを引き立たせている。
初めて会った時は随分と衰弱していて、とても連れ歩けるような状態ではなかった。
そのためホテルで休んでいてもらったのだが、霞はそれでちょうど良かったのだと思っている。実際この目立つ三人で出歩けば、より居たたまれない事になっていただろう。
………まあ、あの目立ちっぷりはほぼ葉唯の奇行のせいだが。
「おっ、これうまい。……で、本題なんだけどな、はゆアレは?」
オレンジシャーベットを食べながら、葉唯に催促する霞。オリンはスプーンを銜えたまま葉唯に向く。
「ああそれなら、さっきのコンビニの袋の中に」
「アイスと一緒に入れてたのか!」
慌てて霞が先ほどの袋をあさる。例のウロコは尋常でなく硬いから大丈夫だとは分かっているが、重要なものをなんてとこに。
「はーーゆーーー」
「あ?無事だったから無問題(モーマンタイ)無問題(モーマンタイ)」
カラカラと笑う葉唯に怒るよりも泣けてきて、霞はウロコを握り締めたままテーブルに突っ伏した。
袋から出てきたそれを、オリンが見つめる。
「……………それは」
「確認、してくれるか?」
霞は虹色に輝くウロコを手渡す。受け取るオリンの手がわずかに震えているが、気付かなかった振りをした。
些細な何かも見落とすまいと、ウロコを親の仇のように、あるいは形見のように、少年はそれを注視している。
「………いえ、姉のでは、ありません」
オリンはそれ程時間もかけずに結論を出す。しかしオリンは、緊張を解かない。葉唯はその様子を見て、
「ふむ」
「いっ!?」
眉間によった皺にチョップした。少年は涙目になる。「は、葉唯さん??」
「カスミ」
「わかったわかった」
やるだけやって説明が面倒になったのだろう。霞に代わりを押し付けて、またアイスに専念する。
「大丈夫。たとえお姉さんのものでなくても、これもちゃんと調べて何とかするから。このウロコの持ち主、どうなったのか気になるんだろ?」
「は………はい。でもボクのした依頼は、姉の捜索だけですし」
「まっ、ついでのサービスってことで。な、はゆ」
葉唯はアイスのラスト一つを頬張りながら、同意するように肩をすくめた。オリンの顔ががパッと輝く。
「姉以外の同族には会ったことがなくて……………できるなら会ってみたいんです」
生きていれば、と胸を過ぎった不安に、オリンは喜びから一転、思わず手を握り締めた。
「人魚か。昔は海に行けば簡単に会えたもんだったがな」
「………それ何百年前だ? 俺は見たことないぞ。この子が初人魚だ」
この子、でオリンを指差す。
「はつに……、かすみさん…………」
緊張感のないやり取りに脱力する。しかしおかげで、少年の表情はほぐれた。先ほどから二人とも、少年の不安に気を配ってくれているのだ。
「……って、あれ?ええっ、ちょっと待ってください、葉唯さん何歳なんです!?」
「いかんなオリンちゃん。れでーに年を尋ねるなんて」
「……………………もしかしてレディーって言いたかったんですか…………?」
「気にするな。こいつ横文字とか機械とか苦手なんだよ、お年寄りだから」
「ツッコミどころはそこじゃないだろバカ」
葉唯は憮然と、食べ終えたカップを目前のタワーに重ねる。積まれた空きカップの合計は8つ。
オリンと霞は見なかったことにした。
「それでおいくつなんですか?」
「あー?………なんだっけか。忘れた。霞と会ったのはいつだっけか」
「んー、ああ、江戸が東京になったあたりじゃないか?」
「かもな」
特に興味もなさそうに、葉唯が肯いた。東京に改称したのは1868年のことで、言うまでもなく霞もとんでもない年齢だということになる。
「はー……、強いんですね、お二人とも」
どんぐり目をさらに大きくして驚く。そういうオリンも30年は生きている人魚である。
”彼ら”の寿命は力の大きさに比例するが、大抵は人間と変わらない長さの生を終える。その水準を超える彼らは、充分尊敬に値するだろう。
とまあ、つまるところ彼らは人間ではない。
精霊とか、魔物とか――――――妖怪、とか呼ばれる者たちである。